2008/03/31

最近の作品から


「蝕・色・食」 IACK2008展、ギャラリーマロニエ(京都)1月22日~27日2008年
<りんご>と<LINGO>わけのわからないちんぷんかんぷんの意
リングは、りんごの重みで仕舞ってくる。
この作品は、りんごをあらためてスーパーの棚から離れて、まじまじと見つめられたら、どんなLINGOを語るのかという好奇から。香気を発するよう期待しての展示となりました。
結果は、<やっぱり食べるとおいしい!>でした。

2008/03/22

こども芸術学科があゆみ始めました(その2)

「保育に役立つリトミックと手遊び」での秋浜友子さんの特別授業では、<からだは楽器>というスイスのE.J.ダルクローズが提唱開発した音楽教育の手法に触れるものでした。リトミックは、楽器の演奏訓練から入るのではなく、まず、からだ全身で音を感じ、リズムや音感を育もうという「感じる」ことを根拠にした手法といえます。このときは教員も参加して、広い体育館で全員、こどもに返っての楽しい授業でした。からだを動かすとキモチが動きます。音やリズムはそのキモチに楽しさと無心さを教えてくれました。


夏休みには、地元の子供達と泥んこプールでのワークショップです。土をいじったりドロドロの感触を味わったりと自然の材料は、私達に多くのことを教えてくれます。土や木、水といった材料自体の芸術的価値を発見したのは、実は、ここ百年ほどの出来事なんですね。それまでは画面の支持体や表現手段としてイメージに仕えるものとみなされていました。


京都や大阪などでは、地蔵盆というこどものための行事が今日もずっと続けられています。この夏、はじめて<こ学>の学生たちも参加して、こども芸大、ピッコリーの皆さんらと一緒になっての地域のこどもたちと喜び、遊ぶ、地蔵盆となりました。いろいろ身近な材料や遊びを工夫しての催しは、こどもたちにどのように受け止められたのでしょうか。今後も楽しみな出来事でした。


9月には、「こどもといのち」をテーマに鎌田東二さんの集中授業が、長野の八ヶ岳のふもとにて行われました。ここは、縄文土器がたくさん発掘された古代のスピリチュアルに満ちたところです。いのちのテーマにふさわしい場所での三日間でした。写真は縄文人に返ってのパフォーマンスの発表風景です。岡本太郎の「芸術は爆発だ!」といういのちの息吹を学生たちは十分からだで感じたと思います。


『うそつきのつき』、『なぞなぞのたび』、『森の絵本』など、ユニークな絵本作家の荒井良二さんが<こ学>の特別授業を一日もってくれました。学生達と身近な材料で絵本をつくるワークショップでしたが、彼の基本は即興でした。<その時、その場>は、一回限りのものです。そこでの向き合い方は<いま>を予定や計画で埋めないで、その時・その場で応答して決めていくという即興的なものでした。ともすると即興性は、<場当たり>、<いい加減>、<無責任>などと嫌われ、批判されがちです。しかし、「感じること」をベースにするには、この問題を乗り越えなければなりません。彼の授業は、時間不足などの尻切れに終わったかもしれませんが、学生達の目はいきいきと楽しそうで、表現することの大切なものを感得できたと思います。


「造形表現」という授業が、学科の特性を位置づけるものとして設定されています。前期のテーマは、「からだと表現」でした。後期は、「あそびと表現」です。この写真は、この授業で音具、楽器を創作しての発表会の様子です。丁度、こども芸大の親子も顔を出してくれました。学生たちは、思わぬお客にやや緊張気味ながらも自らの作った楽器で演奏発表をしてくれました。こどもの反応は率直で、良し悪しではなく、こどもの反応からは得るものが多い。空気や場の雰囲気、間、そして気持の変化などが、こどもの様子で見えてくる。「感じる」ことからはじめる根拠の指標となりうるかもしれません。


この一年は、学科にとって小さな一歩かもしれませんが、多くの人人の援助や手助け、そして理解、協力、声援が大きくあっての一歩となりました。心より感謝と明日への希望を願っています。

こども芸術学科があゆみ始めました



2007
年の4月より、こども芸術学科(こ学)のお姉さん、お兄さん29名が「こども」と「アート」と「教育」をキーワードに<こども芸術>についてまなび始めました。

このこども芸術学科は、<人もアートもどのようにして生まれ育っていくのか>という<はじまり>、<誕生>、<発達>といった根っこを掘り下げ、求めることを課題としています。なぜなら、そこには「芸術によってヒトは人になるんだ」という思いがこめられているからです。どのような時代、地域、民族においてもそれぞれに共通するものに<芸術するこころ>を見出すことができます。ナゼ、共通な営みとなりうるかというと、芸術は生きることと強く結びついているからです。死ぬこと、生まれること、そして食べること、遊ぶこと、学ぶこと、働くこと、など、これらは人類の共通の課題であり、営為です。芸術はこれらと根っこのところで強く結びついています。ですから、この<芸術によって人になる>というこのことばがあるのではないでしょうか。芸術が個々の違いという<個性の表現を主張する段階から、芸術による人間の形成・発達の段階へ>ということが、<こども芸術>の課題だと考えています。個性の表現とは、なによりも人間となること(形成・発達)と結びついていなければなりません。それは同時に、全的な人間の発達を促す芸術とはどのようなものかという芸術自体への問いでもあります。人間になっていく(形成・発達)とは、どのようなことを指すのでしょうか。子育てや保育は、その意味で芸術と深く根っこのところで結びついています。さらに言えば、子育てや保育は、人となる個性を育む(未来の)芸術行為だといえます。

保育とは、なによりも「感じること」から始まるのではないでしょうか。人間はもともと未熟な状態で生まれてきます。動物と比べても身体能力は弱く、生まれたままの状態では死んでしまいます。助け、保護し、世話するという保護養育することが自ずと必要となってきます。それは相手の身になって感じ、考えようとする行為にほかなりません。ですから、手を相手にあてて感じようとすることは、古来から手当てという治癒・治療行為の始原的な仕草です。感じることは、からだ全体をつかって、経験や知識、直感や気持ちなど、すべてを動員して想像力を働かす行為だといえます。このことは、実は、そのまま芸術行為の本質です。感じることをあらわそうと、そして伝えようと、なんらかのカタチにする行為が芸術の本質です。<カタチ>にする手段方法の技術が、必要なのではなくて<カタチ>にしたいという想いや<キモチ>が手段方法を生み出すのです。保育においても手段方法のマニュアルやスキルが先にあるのではなくて、いとしい想いや成長の願いや<キモチ>が子育てや保育方法の知恵や工夫を生み出すのではないでしょうか。優れた保育実践の報告にはこれら「感じる」ことを根拠にした姿勢や考えが伺えます。人と比べたり、統計や数値で測ることを根拠にしないで、生きた感じる心を根拠にしてはじめたいと思っています。