2007年の4月より、こども芸術学科(こ学)のお姉さん、お兄さん29名が「こども」と「アート」と「教育」をキーワードに<こども芸術>についてまなび始めました。
このこども芸術学科は、<人もアートもどのようにして生まれ育っていくのか>という<はじまり>、<誕生>、<発達>といった根っこを掘り下げ、求めることを課題としています。なぜなら、そこには「芸術によってヒトは人になるんだ」という思いがこめられているからです。どのような時代、地域、民族においてもそれぞれに共通するものに<芸術するこころ>を見出すことができます。ナゼ、共通な営みとなりうるかというと、芸術は生きることと強く結びついているからです。死ぬこと、生まれること、そして食べること、遊ぶこと、学ぶこと、働くこと、など、これらは人類の共通の課題であり、営為です。芸術はこれらと根っこのところで強く結びついています。ですから、この<芸術によって人になる>というこのことばがあるのではないでしょうか。芸術が個々の違いという<個性の表現を主張する段階から、芸術による人間の形成・発達の段階へ>ということが、<こども芸術>の課題だと考えています。個性の表現とは、なによりも人間となること(形成・発達)と結びついていなければなりません。それは同時に、全的な人間の発達を促す芸術とはどのようなものかという芸術自体への問いでもあります。人間になっていく(形成・発達)とは、どのようなことを指すのでしょうか。子育てや保育は、その意味で芸術と深く根っこのところで結びついています。さらに言えば、子育てや保育は、人となる個性を育む(未来の)芸術行為だといえます。
保育とは、なによりも「感じること」から始まるのではないでしょうか。人間はもともと未熟な状態で生まれてきます。動物と比べても身体能力は弱く、生まれたままの状態では死んでしまいます。助け、保護し、世話するという保護養育することが自ずと必要となってきます。それは相手の身になって感じ、考えようとする行為にほかなりません。ですから、手を相手にあてて感じようとすることは、古来から手当てという治癒・治療行為の始原的な仕草です。感じることは、からだ全体をつかって、経験や知識、直感や気持ちなど、すべてを動員して想像力を働かす行為だといえます。このことは、実は、そのまま芸術行為の本質です。感じることをあらわそうと、そして伝えようと、なんらかのカタチにする行為が芸術の本質です。<カタチ>にする手段方法の技術が、必要なのではなくて<カタチ>にしたいという想いや<キモチ>が手段方法を生み出すのです。保育においても手段方法のマニュアルやスキルが先にあるのではなくて、いとしい想いや成長の願いや<キモチ>が子育てや保育方法の知恵や工夫を生み出すのではないでしょうか。優れた保育実践の報告にはこれら「感じる」ことを根拠にした姿勢や考えが伺えます。人と比べたり、統計や数値で測ることを根拠にしないで、生きた感じる心を根拠にしてはじめたいと思っています。